研修旅行一日目(新潟県 関興寺・雲洞庵) [総務・企画委員会]
平成21年11月12日(木)
群馬県からいよいよ新潟県に入り、南魚沼市上野 臨済宗円覚寺派 関興寺に着きました。
写真の三門は、今から300年以上昔、元禄年間の建立
関興寺の建造物で一番古いそうです。
研修旅行工程表に、関興寺(味噌なめたか)見学(参拝)と書いてありましたが
この味噌なめたかの意味はご存知でしたか?
旅行社の添乗員さんにも説明を聞きましたが
関興寺ホームページ内の副住職さんのブログに下記のように記されていました。
関興寺の「つれづれ日記」 2008/7/9 「関興寺の味噌なめたか」より抜粋
修行僧(雲水と禅門では呼びます)の禅寺の生活は非常に枯淡でありました。衣食住の全てにおいて質素で粗末な環境にありました。それは、今も昔も変わることはありません・・・。しかし、修行を続ける為には、自身の体力を維持する必要がありました。その雲水たちの修行生活の糧として、頼みの綱となったのが「味噌」であったのです。
関興庵の修行僧たちは、「味噌」を糧として厳しい禅堂生活を耐え抜いたのでしたが、その「味噌」を、自らの修行の一環として作っていたのです。
雲水たちが「味噌」を食し修行に耐えたことから、関興庵で修行することは即ち「味噌をなめること」となって、修行僧の間で「関興庵で修行したのか?」と「問いかけの言葉」として広まり、やがて「関興庵で修行しなければ一人前の禅僧とはいえない」という意味で「関興の味噌なめたか」の言葉が言い伝えられるようになったのです。
ちなみに、関興庵の「庵」は江戸時代に「寺」に変更されました・・・。
それともうひとつのいわれ・・・(こちらのほうが有名)
「御館の乱と関興寺味噌」
「御館の乱」(上杉謙信亡き後の、景勝と景虎、二子による家督相続争い)の折、景虎側の援軍である小田原北条軍の焼き討ちによって、関興庵の大伽藍は焼失しましたが、上杉家より奉納された「大般若経600巻」を、修行僧が作りおいた味噌の樽の中に埋めて焼失から守ったことから、関興寺に参拝した人は、その大切な経典を守ったありがたい味噌を頂かないと、何のために参拝したか「甲斐が無い」というので、いつの頃からか「関興の味噌なめたか」と言いはやされるようになった・・・
という話のほうが、現在では一般に広く伝わって、沢山の参拝者が訪れるようになっているようです。
ご利益があるように
関興寺の味噌をいただいてきました。
そして、一日目最後の見学場所、土踏んだかの雲洞庵
赤門をくぐると・・・
雲洞庵は「天地人」の主人公、与六(のちの直江兼続)と喜平次(のちの上杉景勝)が
少年期に学問を学んだ地です。
「天地人」の第1回目の最後に「与六の故郷」として、雲洞庵は紹介されました。
当時は厳しい修行の場であったようですが
ワタシたちの目に入ってくる景色は、まさしく錦秋の言葉がぴったりの
素晴らしい景色でした。
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